スタッフ紹介
いらっしゃいませ!
店長の井上隆と申します。
心を込めて、おいしいお茶をお送りします。末永くご愛顧くださいませ。
ご愛顧ありがとうございます。お客様のご注文に応対しております、井上恵巳子です。
インストラクターとしてお茶の楽しさをお伝えできればと思います!
お茶を仕上げております、  三戸久和と申します。     お客様に喜んでいただける お茶作りをするように     ガンバリます!!

最北端にある小堀遠州の八窓庵

八窓庵全景 −札幌に息づく大名茶人の遺産
八窓庵と小堀遠州


 中島公園の日本庭園にひっそりとたたずむ茶室 「八窓庵(はっそうあん)」。
安土桃山時代・江戸時代初期の大名茶人
小堀遠州(こぼりえんしゅう)の作といわれています。
およそ四百年前に造られた貴重な遺構が、
なぜ札幌にあるのでしょうか。
そして、小堀遠州とはどんな人物だったのか。その歴史をたどります。

 札幌によみがえった八窓庵
都心にありながら豊かな緑に囲まれ、市民の憩いの場となっている中島公園。
その中にある日本庭園では、深い木立に包まれ、ひっそりと立つ木造の建物が、森閑とした雰囲気をさらに引き立たせています。
その建物が八窓庵(旧舎那院忘筌―しゃないんぼうせん)と呼ばれる茶室であり、およそ四百年前に活躍した大名茶人小堀遠州の晩年の作と伝えられています。
 もともと、八窓庵は遠州の居城であった近江国(滋賀県)小室城内にありました。
流転の末、遠く離れた札幌にたどり着くことになりました。
 発端は、天明8年(1788)に小堀家が藩財政の悪化と失政を理由に転封を命じられたことでした。この時、小堀家に代々伝わる貴重な財産が散逸してしまい、八窓庵も滋賀県の長浜八幡宮俊蔵院へ移されることになりました。
その後、一時別な場所へ、さらに明治初頭に俊蔵院の学頭(大寺院で学事を統括する所)である舎那院へ移築されました。大正八年になって、それを言論人であり実業家の持田謹也氏が買い取り、札幌の自宅(北4条西12丁目)へ持ち帰りました。 
 持田氏は千葉県出身で、明治29年に北海道毎日新聞茶室の内部   茶室の内部(非公開)
の編集長として来道しました。明治39年には北海タイムス(現在の北海道新聞)の編集長、さらには取締役となった
人物です。
 また、かつて中島公園にあった競馬場を私費を投じて改修したり、日本競馬会の理事を務めたりするなど、競馬の奨励にも力を入れ、札幌競馬の育ての親ともいわれています。
 その後、八窓庵の所有者は持田氏から実業家の長沢元清氏に変わり、昭和26年には長沢氏から札幌市に寄付され、現在の場所へ移されました。
移築の際は、建物ごと掘り起し、巨大な特製台車に乗せて深夜に6時間かけて運びました。
 こうして、持田氏にとっては競馬の思い出の地でもある中島公園に、江戸時代初期の貴重な遺構がよみがえりました。 
 ただ、2006年の春に大雪に押しつぶされ、現在修理。
2008年改修完了。
         扁額「忘筌」


写真(左):正面に掲げられた
扁額(へんがく)「忘筌(ぼうせん)」。
 筌とは竹を編んで作った魚を捕る道具で、
荘子の句で「魚を得て筌を忘る」。理を悟って教えを忘る」とあります。
遠州の直筆といわれています。
 
 八窓庵の魅力
八窓庵の構造 
八窓庵は、二畳台目(3畳に4分の1足りない広さ)の茶室で、合計8個の窓を備え、席名もこれに基づいている。
八つの窓が狭い空間を広々と立体的なものにしており、窓の配置にも工夫がある。
茶席の2枚の畳にそれぞれ四つの窓が配され、光が集中するようになっており、その「照明」の効果は絶妙です。
↑写真(上):八窓庵の構造
 昭和11年に国宝として指定され、法改正のため25年にあらためて重要文化財に指定された。現在、本席とつながっている水屋ともう一つの茶室は、持田氏が八窓庵を    買い取った際に付け加えたものです。 
八窓庵と白く光る路地 
 茶道では、茶室はもちろん、そこへ至るまでの通路や露地(庭)も重視されている。露地は、茶の湯の世界を日常的な世界と隔離する結界だと考えられ、茶聖千利休も「茶の湯は露地口を入る時から始まる」と語ったという。八窓庵の露地は、遠州の系譜に連なる遠州流茶道宗家12世の小堀宗慶氏が62年に作庭し、札幌市に寄贈したものであり、遠州と宗慶氏の時を超えた合作を楽しむことができます。

 写真(右):八窓庵と白く光る露地→
八窓庵周辺地図


交通
地下鉄 南北線「中島公園駅」下車
市電  「中島公園通」下車
市バス 「中島公園入口」下車
日本庭園2日本庭園1







                                  八窓庵を囲む緑の静寂

中島公園の日本庭園
八窓庵が立つ日本庭園も趣深い。造営に当たっては北海道の山野の色を年と欧に置いたという。
庭石は日高の沙流川、胆振の鵡川などから運んだもので、池の護岸にはセメントを一切使わず、古来の名園を参考に石と丸太で組まれた。12基の石灯ろうは京都の老舗石屋が全国各地の名だたる渡欧労の形をそろえました。
 日本庭園の開園時間:午前6時〜午後7時(4月下旬〜11月上旬)


 八窓庵を造った〜小堀遠州物語

 小堀遠州は、天正七年(1579)に近江国坂田郡小堀村(滋賀県長浜市小堀町)で生まれた。父親の小堀正次は、北近江の太守浅井長政の家臣であったが、長政が滅びた後、豊臣秀吉の弟秀長の家老となった。
 遠州は、少年時代を秀長の居城があった大和国郡山(奈良県大和郡山市)で過ごす。早くから書道、和歌、茶道などを学んでいたが、特に茶道において非凡であったという。
 遠州が9歳の時のエピソードが残っている。
秀吉が郡山城を訪れることとなり、秀長は秀吉の前で粗相をしないよう、千利休を呼んで茶の湯の作法を練習していた。
遠州はその様子を遠くから眺め、利休の姿を見ることができたという。それは利休と遠州という後世に名を残した大茶人同士の一瞬の「出会い」であった。
3年後、利休は秀吉の怒りを買い自刃する。郡山城での利休の姿は、遠州の胸に焼き付けられたに違いない。その後、茶道への情熱が増したのか、15歳ころには当代随一の巨匠古田織部に師事し、茶の湯の奥義を極めていった。
 小堀遠州の像
 正次の死後、遠州が家督を継いだのは慶長九年(1604)、25歳の時である。
優れた建築家でもあった遠州がその才能を発揮し始めるのは、これより2年後の後陽成院御所の作事奉行(幕府関係の建物の造営・修繕などを統括する職)の一員に加えられてからだった。
以後、駿府城や名古屋城の作事奉行にも任じられ、駿府城の完成の際には従五位下遠江守を授かり、それが遠州と呼称されるゆえんとなった。 


            小堀遠州像。大徳寺孤法篷庵(こほうあん)所蔵↑
 元和九年(1623)、44歳となった遠州は生涯の職となる伏見奉行につき、畿内の監督者となった。また、作事についても幕府はさらに遠州を重用しはじめ、伏見城や大坂城の重要な作事が遠州の主導で行われていった。
 壮年を迎え、茶道においても円熟期に入った遠州は、織部なき後の天下一の巨匠と自他共に認める存在となり、茶の湯指南役として将軍の信任も厚かった。しかし、すべてが順調ではなく、危機もあった。理由は不明だが、遠州が公金一万両を横領し、それが人に知られることとなったのだ。しかし、酒井忠勝をはじめ、遠州に批判的であった細川忠興までが、遠州を失うことを惜しみ、公金返済の資金を提供したという。
 将軍の茶道指南役として、また各地での建築、造園のため東奔西走し続けた遠州であったが、最晩年は茶事ざんまいに過ごし、正保四年(1647)に伏見奉行屋敷で没した。享年69歳であった。しかし、遠州の名は、遠州流茶道の祖として、また庭園史上不朽の存在として、現在まで語り継がれている。

トップページへ

 
 
 
 
 

Copyright(C)2000-2006 Ujiseitya Corporation All Rights Reserved.